不思議なのは、ここからの話だ。
あれほど「高彩度のギラついた絵は気持ち悪い」と眉をひそめていたはずの僕らなのに、気づけば数年後には、そのくっきりとした鮮やかな絵をすんなりと「普通」として受け入れていた。過剰だったはずのノイズレスな世界が、いつの間にか、ごく自然な日常の景色になっていく。
きっと、僕の目もそのグラデーションの中にあった。
だからあのとき僕が混乱したのは、単に技術が変わったからではないのだろう。見ている僕たちの側の目が、誰にも気づかれないほど静かに、ゆっくりと作り替えられていた。その戸惑いだったのだと思う。
これ、よく考えるとかなり不気味な話だな、と思う。
あれだけ拒絶していたものに、いつの間にか馴染んでしまっている。しかも、自分がいつその新しい基準の側に足を踏み入れたのか、その瞬間を誰も思い出せないのだ。
アナログからデジタルへ。これを「表現の進化」と呼ぶのは、少しだけピントがズレている気がする。進化したのはあくまで出力の精度であって、「美しさ」そのものが高尚になったわけじゃない。ただ、見え方の規格が更新されただけ。そして人間という生き物は、その更新に対して、恐ろしいほどの速度で順応してしまう。
最近、それと全く同じ手触りを、別の場所で感じた。車だ。
僕はもともと、エンジンがうるさく唸るガソリンのバイクや車が好きだった。あの無骨な音や、お腹に響く微細な振動、それ自体に味があると思っていた。だから電気自動車(EV)なんて、いくら性能が良くても、きっと味気ない乗り物に違いないと高をくくっていたのだ。
けれど、一回そのシートに座ってしまうと、まずいことが起きる。
滑るように静かで、どこまでも滑らか。アクセルを踏んだ瞬間のパワーの出方が、たまらなく気持ちいい。そして、その快適さに浸かったあとで元のガソリン車に戻ると、あんなに愛おしかったはずの音や振動を、不意に「うるさくて雑なもの」と感じている自分がいるのだ。
あんなに好きだったはずなのに。
人間の感覚なんて、思っているよりずっと簡単に、上書きされてしまう。そんな自分自身の脆さが、正直に言えば、少しこわい。
こういうとき、いつも思う。世の中の「規格」をゼロから引く人は、本当にすごい。そして、少しだけうらやましい。
テレビの発光方式を変えること。車の動力をモーターに変えること。それは一見、冷たい技術的なアップデートに見える。けれど実際には、僕たち社会全体が「何を心地よいと感じるか」という内面のOSを、根底から書き換えてしまっているのだ。
ブラウン管を液晶に変えた人たちは、単に画質を上げたのではない。「鮮やかさこそが豊かさだ」という新しい価値観を、世界にインストールしたのだ。エンジンをモーターに変えた人たちも、これから「静寂こそが上質だ」という感覚を、当たり前の空気にしていくのだろう。
僕たち表現する側は、その新しく引かれた白線の中で、必死になって「良い絵」を探す。けれど、その白線自体を動かしているのは、もっと遥か上流にいる、規格を引く人たちなのだ。技術はいつも、良いものをつくるのではない。「何を良いとするか」を、つくり変えていく。
そして、この技術の進化には、もうひとつ、逃れられない方向がある。
それは、いつも「より多くの人を開放する」という、民主化の方向へ進むということだ。
かつて一部の専門家だけが握りしめていた難しい技術が、簡単になり、誰の手のひらにも届くようになる。この流れは、誰にも止められないし、止めるべきでもない。
かつて、その流れが写真の世界に押し寄せたとき、何が起きたか。
そして今、それと全く同じ地殻変動が、僕たちのすぐ足元で起きようとしている。
第3話に続く









