写真は、長いあいだ一握りのプロのものだった。
複雑な露出を計算し、気まぐれな光を読み、暗室で現像の手間を経て、ようやく一枚の絵が立ち上がる。その技術的なハードルの高さこそが、そのまま参入の壁として機能していた。
それが、iPhoneという機械の登場によって、綺麗に消え去った。
ポケットから薄い板を取り出して、ただ向けて、押す。それだけで、空は抜けるように青く、料理は温かく美味しそうに、人は人らしく写る。面倒な露出もホワイトバランスも、機械の裏側で勝手に調えられている。誰もが撮れるし、誰もが、撮れた気分になれる。
これは素晴らしいことだと思う。否定したい気持ちなんて1mmもない。写真が一部の特権階級のものから解放され、誰もが自分の愛おしい日常を記録できるようになった。それはひとつの、美しい解放だ。
技術はいつも、難しかったものを簡単にし、閉じていた部屋の窓を全員に向けて開け放つ。
そして今、それと全く同じことが、生成AIという場所で起きている。
プロンプトをいくつか打ち込めば、誰でも、それなりに成立した破綻のない絵を引き出せるようになった。ジブリ風の背景、アニメの実写化、タイムラインを埋め尽くす量産型の美しいポートレート。
これもまた、表現の民主化としてすこぶる正しい。写真におけるスマホがやったことを、AIが絵や映像の領域でやっているだけだ。流れを止める理由なんて、どこにもない。
ただ、この一年ほどAIを日常的に触っている人たちのあいだに、うっすらとした奇妙な違和感が芽生え始めているのも事実だと思う。
なんというか、スマホのカメラで連写した記録写真の、ほんの少しだけ角度が違うやつ。そんな絵が、延々と目の前で生成され続けているような、あの感覚。どれも形は崩れていない。どれも「いかにもありそう」に見える。なのに、こちらの心を射抜くような決定的な一枚が、どこにも見当たらないのだ。
この喉に刺さった小骨のような違和感は、たぶん、とても正しい。
AIという仕組みは、これまでに人間が残してきた膨大なデータの海を泳ぎ、その中でいちばん「ありそうな点」を推測して返してくる。確率を平均化し、最も確からしい中心地に着地する。だから絶対に破綻しないし、大外しもしない。
けれど、「外さない」ということは、その平均値の檻から一歩も外へ出られない、ということでもある。
まだ誰も見たことのない、狂おしいほどの一点には、その構造上、原理的に辿り着けないのだ。これはAIが下手くそだという話ではない。むしろ逆だ。機械として優秀すぎるがゆえに、平均という巨大な重力に吸い寄せられてしまう。どれだけ性能が上がろうとも、この性質が変わることはない。
じゃあ、その果てに、一体何が残るのだろう。
「リアルとは何か」「本当に伝えたいものは何か」「それをどうやって他者の心に届けるのか」。結局のところ、最後にそれを決めるのは人間の心だ、という綺麗ごとに着地したくなる。僕だって、そう思いたい。
けれど正直に白状すれば、人間が何に心を動かされ、どういう映像で涙を流すのか、という感情のパターンさえ、そう遠くないうちにAIに予測され、ハックされてしまうだろうと思っている。人間の切なさのパターンなんて、きっと読まれてしまう。それは少し、寂しいけれど。
だから僕は、人間に最後まで残る砦を「感情の理解」なんていう曖昧な場所には置かない。
そうではなくて、「何を良いとするか」という、最初の基準を自ら決める行為そのものに置きたいと思っている。
AIがどれほど賢くなろうとも、彼らは与えられたルールの中で最適解を弾き出す優秀な機械だ。「この方向で最高のものを」と命じられれば、凄まじい精度で打ち返してくる。けれど、「じゃあ、どの方向へ進むべきか」という最初の問いを立てることは、最適化の計算式の外側にあるため、彼らの仕事にはなり得ないのだ。
絵をつくるコストがタダに近づけば近づくほど、ただ「つくる力」の価値は下がっていく。その代わり、「何をつくる価値があるのか」を孤独に決めるその一点に、すべての価値が濃縮されていく。
僕は、まだテレビが4:3だったアナログの時代から、CGというコンピューターの世界に身を置いてきた。学生の頃、これからはデジタルが来ると根拠もなく確信して、わざわざ当時いちばん面倒だった3DCGを最初の武器に選んだ。
そもそもコンピューターという発明自体が、特権化された計算能力を研究室の巨大な箱から引っ張り出し、誰もが机の上で扱えるようにするための「民主化の道具」だった。難しいことを簡単に、閉じていたものを開く。そのために生まれてきた装置だ。
だから、今起きているAIの騒ぎなんて、長い歴史の目で見れば、少しも新しくない。写真も、デジタル映像も、CGも、そしてAIも、すべては同じ「民主化」という地続きの川を流れている、一番新しい一滴にすぎない。
その流れの中で、プロとして生きるとはどういうことか、僕は20年以上ずっと考え続けてきた。CGをやり、実写をやり、VFXをまたぎ、編集室にこもり、会社の経営までやった。それは何かの専門家として記号化されるためじゃなく、すべての工程を横断した上で、「今、何が良いのか」を自分自身の足元で判断できる状態をつくるためだった。
だから今、AIの波を見てみんなが右往左往し、基準を見失って少し判断ができなくなっているあの空気を見ても、あまり驚かない。4:3から16:9になったときも、アナログからデジタルに変貌したときも、僕らは全く同じ景色のなかを通ってきたからだ。
技術が開かれるほど、つくれる人の数は爆発的に増える。
けれど、「何を良いとするか」を自分で決められる人の数は、たぶん、そんなには増えない。むしろ、世界の基準が目まぐるしく壊れ続けるぶん、その判断はどんどん孤独で、難しくなっていく。
たぶん、僕らはそういう奇妙な時代を生きている。
僕は、その手前で、ただ静かに判断の旗を立てる仕事を、これからも引き受けていくのだろうなと思う。









