この間、ファッションの撮影があって、打ち合わせの時に見本の写真を前にして「このエモさがいいんですよね」みたいな話になった。 よくある光景。
僕はその言葉を聞きながら、静かに解体してた。 この人が「エモい」って言ってるのは、赤の見え方のことなのか。逆光の質のことなのか。クライアント側のスタッフの間でも、その解釈はまちまちだったりする。 それをさらっと聞きながら、自分の中で言語化して持っておく。
映像やファッションビジュアルの現場では、抽象的な言葉がとにかく飛び交う。 「エモい」とか、「空気感」とか、「硬い」「柔らかい」とか。 ビジュアルを語る日本語の形容詞って、驚くほどボキャブラリーがない。 だからこそ、その曖昧な言葉を受け取って、自分の中で解体して、文章のように組み立てる。 そういうことを、僕はわりと意識的にやるようにしている。
取り返しのつかない「一瞬」を設計する
たとえば「エモい」。 記号みたいな言葉だけど、これを「エモーショナルなノスタルジー」って翻訳してみる。 日本語に開き直せば、「もう取り返しのつかない、二度と戻ることのできない過去」との距離感のこと、と捉えてみる。
さらに解像度を上げると、「親密だった何かが、すでに失われている──というか、時は進むのですべては失われるという前提がある。 その状態で心の奥底に"記録"として残っているものが、あるトリガーをきっかけに思いがけず蘇る時に湧き上がる、切実な感情」と解体できる。
ここまで解体できて初めて、「エモい感じで」と言われた時に設計すべきは「あるトリガー」だということが理解できる。 文字面だけで受け取ると、二度と戻ることのない過去をリアルに再現することを目指しがちだけど、それはそれぞれの過去であって、そんなものには誰も共感しない。 もっと詩的で抽象的な、しかし確実に観る者の記憶に触れるトリガーがあるはずなのだ。
そのトリガーのイメージを、光の角度、被写体との距離、レンズが切り取る親密度へと落とし込んでいく。 ここまで解体して初めて、ディレクションだと僕は思ってる。
現場で起きていること
で、実際の現場はどうかというと。
ハウススタジオで自然光と人工光を組み合わせるような現場だと、太陽は待ってくれない。 打ち合わせで握った方向性があっても、当日が曇りなら解釈を変える。雲が多い。逆に明るすぎる。 その条件を一瞬で判断しながら、事前に言語化しておいた自分の「説」を、みんなと会話しながら確信に変えていく。
「これどう?」と見せながら。
このとき、「エモい感じで」のままだと、曇った瞬間に全員の基準がバラバラになる。 でも「記憶のトリガーになる光の質」まで解体してあると、曇りなら曇りで、じゃあ柔らかい光の方がむしろ記憶っぽいよね、っていう判断が現場で共有できる。 事前に言葉を解体しておくことの意味は、結局ここにある。 突発的なことが起きた時に、抽象語のまま抱えてると対応できない。
白ホリのスタジオなら光を作るのは当たり前で、ある程度コントロールが効く。 でもロケは違う。ドキュメンタリーや低予算のMVだと、光を見て、背景を見て、もっと言えば被写体自身のコンディションを見て、判断を重ねていく。 こっちの方が圧倒的にスリルがあるし、正直に言えば好きだ。
冒頭にファッションの話を書いたけど、広告の映像でもMVでも、やってることは同じだ。 ジャンルが変わっても、抽象的な言葉を受け取って、解体して、現場の条件と照らし合わせて判断するという構造は変わらない。 長くこの仕事をやってきて、それだけはずっと変わってない。
「空気感」でも「エモい」でも「かっこいい」でも「硬い」でも「柔らかい」でも。 ビジュアルを語る日本語の形容詞は、驚くほどボキャブラリーがない。 だからこそ、その曖昧な言葉を受け取って、自分の中で解体して、文章のように組み立てる。 撮影が始まる前に、頭の中に文章のようなパラメーターがある状態をつくる。
それが、僕にとっての「空気感を数値に翻訳する」ということだ。
美を解体し、生を構築する
なぜ、そこまで理屈っぽく「美」を弄ぶのか。 僕は「美しいと感じる仕組み」を解体し、理論として再構築すること自体を、自分のアート作品のテーマにしている。
「美しい」という曖昧な領域を、数学のように解き明かしたいという期待。 それは単なる仕事の武器ではない。 僕が表現者として、この世界で「生きている」ことを証明するための、数少ない作法だ。
車窓から流れる景色を眺めるように、不躾に、客観的に世界を見る。 広告の場に、アートの目を持ち込む。 それがTAUMAに込めた意志だ。
言葉の解像度を上げるのは、表現を縛るためじゃない。 現場で化学反応を起こすための準備だ。 チーム全員の目を、同じ場所へ向ける。 その上で、まだ誰も見たことのない景色を、見に行く。









